中国の弁護士 高智晟の妻 耿和さんがBBCのインタビューを受けました。
高弁護士に関しては、下の2つをサイトを参考にしてください。
中国の人権派弁護士高智晟氏が受けた凄惨な拷問・今彼の命が危ない!维基百科 高智晟 以下、インタビューの翻訳です。BBC記者=B, 耿和さん(Ms.Geng He)=G とする。
インタビュー第一部分(中国語原文)B:まずあなたの夫の高智晟が2006年に初めて逮捕された時に何が起こったのかお話ください。
G:2006年8月15日、当時私と娘は北京の自宅にいました。数日前から高弁護士の山東省の義兄が危篤状態で、彼は山東省へ義兄を見舞いに行っていました。
その日、私は娘を連れて美容院へいって、ちょうど美容院に入った時に一団の人たちが入って来て美容院を封鎖ししました。彼らは私に対してボディチェックをして、私たちを連れて自宅へ帰らせようとしました。
娘の髪はまだ切り終えていなくて半分だけ切った所でしたが、彼らは帰らないといけないといいました。沢山の人が隊列を組んで私たちを挟んでで自宅まで歩いて行きました。
すべての隊列が私たちのマンションの廊下に入った時に、女の警察官が私の自宅のドアを開けました。この時、上を階を見上げると、私たちの家は2階なんですが、2階と3階に警官が配置され、2階から1階へも警官がいて、私にも一体何人いたのか数えきれませんでした。
家に入って警官達は私に対して捜索をすると宣告され、それから我が家の捜索が始まりました。これが朝12時で、6時から7時まで捜索していました。
この頃弁護士事務所はすでに業務を停止していたので、家にも弁護士事務所の全ての案件書類、財務資料があり、警官達は家の全てのものを押収していってしいまいました。
押収した後で、残った警官が、これからお前達の家に警官を付けて、お前達の全ての行動は我々の監視下になると告げられました。
B:当時、高智晟の状況はどうだったのですか?
G:この時、夫はこの日に山東で捕まったはずです。
B:彼が捕まった後、どのような待遇を受けたのですか? どのような待遇だったのか、話せますか?
G:彼は監獄で拷問を受けましたが、かれは多くを語ってくれませんでした。2007年に拉致された際に拷問をうけたことしか知りません。というのは、彼は毎回帰ってきても私に知られたくなかったからです。
B:彼は2007年に拷問を受けたのですか?
G:そうです。2007年9月末、彼は国会に人権に関して手紙を書きました。警察は彼を連行し、50日近く拘束しました。
B:国会というのはアメリカの議会のことですか、それとも中国....
G:アメリカの議会です。
B:それから彼は連行されたのですか?
G:そうです。
B:どうぞ続けてください。
G:当時、彼は6、7人の警官に黒い布を頭に被せられて部屋で拷問を受けました。警官は彼の服を脱がせて彼を殴打したのです。
殴打した後で、4人は電気ショック棒で彼に電気ショックを与え、生殖器にも電気ショックを与えました。気を失うと水をかけて起こしては一晩中彼を苦しめました。
次の日の朝、警官たちは5本のタバコで、一人の警官がタバコを吸って、もう一人が彼の頭や体を押さえて動かないようにして、彼の目や鼻をタバコの煙でいぶしました。
警察は彼に食べ物を与えず、「社会主義は素晴らしい」などの歌を歌わせ、もしよく歌えたらマントウ一つ、うまく歌えていないと彼らは爪楊枝で彼の生殖器をつつきました。
B:警察がこのように彼に拷問をするのはどういう目的のためですか? なぜ彼に対してこのようにするのでしょうか?
G:それは彼が言うことを聞かなかったから、警察はもし言うことを聞いて、例えば法輪功は良くないという文章を書けば、1500万元以上払ってやるからと話しました。
B:1500万?
G:そうです。夫は屈服しませんでした。数日後、警察は共産党は素晴らしいという文章を書けば、同じ金額を支払うと言いました。
最後まで夫は屈服しませんでした。警察は何も書かなくても同じ金額を出すと言いました。筆を取らず何もするなと。しかし、夫は時間があると、彼が受けた迫害や中国の人権状況について外(外国)へ知らせました。
彼のこのような強情なところが、中国共産党はとても憎かったので、どうしても彼を叩きのめしたかった。
B:拘留された50日余りの後、彼は出て来てから、体の状況はどうでしたか?
G:夫は帰って来てから、涙が止まらず、一日中涙を流していました。面と向かって話をしても目から涙が落ちるのです。
夫は自由にしゃがんだり立つことができなくなり、しゃがむと立ち上がる時にはゆっくりとしか立ち上がれませんでした。寝るときは私が助けて横にして、起きる時も私が支えて起こしました。自然に立つことができず、腰はやられていました。
警察で全身に電気ショックを受けたので、皮膚は電撃で黒くなり、帰って来た時は全身の皮膚がむけ、頭から足ま全ての皮膚がむけて、全身にひび割れに毎日クリームをぬってようやく耐えられるという状態でした。
B:この期間中、あなたやお子さんの生活にはどのような影響がありましたか?あなた達はずっと監視下のもとで生活していたのですか?
G:2006年8月15日、警察は私たちの家に住んで、3班体制で一班に4人の婦警、2人の男の警官が家に住み込み、20日間住み込んで、この20日間彼らが我が家の主人になりました。誰かが家のドアをノックすると私はドアを開けることが出来ず、警官がドアをあけ、応対しました。
私がトイレやバスルームへ行くとドアに警官がいてドアを閉めることはできませんでした。
我が家の玄関口にも警官の立ち番がいました。我が家は2階だったのですが、2階の入り口にも警官がいて、2階から3階の階段口にも警官がいました。1階の入り口に警察は小屋をたて、臨時の家ですが、中に警官が住みました。自宅のマンション棟の裏、ベランダの裏にも警官や警察車輛がありました。
B:このような状況でお子さんにはどのような影響がありましたか? 学校は高弁護士が逮捕されどのような待遇をうけているか知っていたのですか?
G:子供は学校に行くのは警察の
ビュイック(Buick)のワゴン車に乗って行きました。車には6、7人の警官が乗れました。学校に着くと、娘の格格をクラスまで連れて行きました。警官は廊下で座っていて、窓から娘の授業の様子を見ることができました。
娘のクラスのコンピューターの授業は取り止めになり、受けられなくなりました。クラスメートたちは娘を恨みました。娘の原因でコンピューターの授業を受けられなくなったと思ったんです。教師は生徒達にに携帯電話を持って学校に来ないように、もし持っていて娘に携帯を使わせたら犯罪にますます近づくことになり、学校も管理しきれないと言いました。
B:これが娘さんの心理状態に大きな影響を与えましたか?
G:はい、そうです。娘は13歳から彼らの殴打、侮辱、嘲笑のなかで生活していました。
B:殴打とおっしゃいましたね?
G:はい、彼らは娘にも暴力を振るいました。一度、娘が放課後に道ばたで軽食をとろうとしたのですが、彼らは許しませんでした。食事はもう出来ていたのですが、彼らは娘を帰らせようとしました。娘が拒むと食事をひっくり返して、4人で娘を抱えて車に乗せました。車はとても大きくて、彼らは娘を車へ投げ込みました。
B:警官がしたんですよね?
G:全部警官がしたことです。警官たちは毎回車で子供を押さえて、父親を罵りました。ある時、警官は道ばたで見かけた2人のことを、「ほら、この人は高弁護士で、あの人は胡佳みたいだ。彼らは同性愛者だ。」、と言って車で娘の父親を侮辱しました。
B:娘さんはとても辛かったのでは?
G:はい、娘はとても辛かったのですが、私も自宅で私につきまとう警官に対応しなければならなかったので、娘は私に話しませんでした。警察は私も侮辱し、嘲笑しました。だから娘は話さず、最終的に精神的に落ち込んでしまい、教師に保護者面談に来るように言われました。娘は我慢強くて、どんないじめにも耐えることができましたが、アメリカに来て、子供をまず医者に見せました。ずっと父親の知らせはなく、2009年のクリスマスになって娘は入院しました。
B:なぜ入院したのですか?
G:13歳から娘の精神状態は悪く、心に影がありました。父親が帰って来た時に、彼女は父に精神科のお医者さんへ行きたいといったのですが、ずっと警察に付けられていて精神科へ行く時間もなく、私たちが出国してからも父親の消息はなく、ずっと父親の知らせがなくて、彼女の精神は崩壊してまいました。
インタビュー第二部分(中国語原文)
B:当時、中国を離れる決定をされましたが、この決定はどのようにされたのですか、このような決定をするのはとても難しかったのではないですか?当時のお考えを話していただけますか?
G:当時は2008年9月でした。子供は学校に行けず、他の学校へ行ったのですが、しばらくするとその学校にも行けなくなってしまいました。娘の学校のため、他に方法もなくて、中国を出ることにしました。
私の家庭では夫が精神的な支えでした。だから、この選択は私たち双方にとって苦痛でした。しかし、子供ために、出ないと行けないと。
B:出発する時に高智晟には言わなかったのですか?
G:はい、そうです。言いませんでした。
B:なぜですか?
G:彼が受け入れられないのを心配したのです。
B:家を出てから、中国を出るまで、どうだったか話してください。
G:とても静かな日でした。(夫)彼は外出していました。私は娘にある場所を指定して、外出してそこで待つように言いました。その頃、私たちは監視されていて、私が子供と外出するのは容易ではなかったからです。
長期間、私たちの家の付近を観察してくれていた人から、お昼に警官達は昼ご飯を食べるので、監視がゆるくなると聞いていたので、娘を先に指定のところに行かせて、私と息子は2〜3時間してから外に出て娘と合流し、監視を逃れて、タクシーで駅へ行きました。
B:高智晟に何か書き置きをしましたか?
G:しました。私と子供は学校に行くので、探さないでと書き置きしました。
B:でもその日、あなたは子供を学校に連れて行かずに、子供を連れてとても苦して長い旅路についたのですが、この旅はとても困難ではありませんでしたか?
G:はい、子供を学校に行かせるため、我が家は普通の家庭よりも多くの代償を払いました。この文明社会においては想像できないことです。
B:中国を出国してタイへ向かい最終的にアメリカに来ましたが、この過程をお話してもらえますか?
G:1月9日に中国を出国して、1月28日か29日にタイに到着しました。この間、友人がリレー形式で助けてくれました。今日はあなた、明日は彼という具合に、私も彼らが何者なのか知りませんでしたが、彼らに着いて行きました。
B:この期間、友人の家に泊まっていたのですか?それとも、野宿ですか?
G:友達の家には泊まりませんでした。普通、夜歩きました。夜、車であったり、オートバイであったり、歩いて、峰を越え山を越え、いつも移動していました。
B:汽車でも、車でも、オートバイでもいいのですが、休む時間はありましたか?
G:眠りませんでした。とても緊張していて、とても怖かった。私たちを連れて行ってくれる人を知りませんでしたし。言葉も通じませんでした。だから毎日びくびくしていて,そういう飲み食いもせず眠りもしない状態でした。
B:それでは子供たちは家を離れ、父親から離れる決定にどんな反応をしましたか?父に会えないということについてどんな気持ちでしたか?
G:子供には話しませんでした。汽車に乗ってから、娘にとても遠いところに行って。あなたを学校にいかせてあげたいのと言いました。道中、子供とは会話しませんでした。私たちはただ命からがら、ここまで逃げて次はあそこまでと逃げました。この頃、私たちは考えませんでした、私たちの未来のことも考えませんでした。ただ今日何もなければそれで良いと思いました。いつも娘のことを考えると、私たち夫婦はとてもやましかった。娘が入院して眠れなかったときに、彼女は父親が死んだ夢を見て、「お母さん、お父さんにとっても会いたいよ、お父さんに愛してるよって言ってあげたい。いままで言ってあげたことがないのよ。」と言ったのを覚えています。
B:アメリカに着いてから、高智晟と何か連絡をとったことはないですか?
G:昨年4月、彼がちょっとだけ出て来たときに、2〜3回電話したことがあります。
B:何を話しましたか?
G:彼に、「写真で見ると前歯が黒くて曲がっているから、歯医者に行くべきだ」と言いました。彼は返事をしませんでした。私が再三彼を問いただすと夫は、「もし行ければ、行くよ。」と言いました。彼のそばに誰かがいたのを知っています。彼には医者に行く権利はなかったのです。
B:昨年の4月から現在までに、高智晟にどんなことが起こっていると思いますか?
G:AP通信社が今年1月に報道しましたが、夫が拷問を受けていて、2007年に受けたのよりも更に酷い拷問を受けているということでした。
B:今、高智晟の音沙汰はなく、あなたも連絡できないのですが、辛くはないですか?
G:そうそうそう、特に彼の行方が分からず、生死さえ分からないのです。毎回知らせはネットから得るのです。また拷問を受けている、また迫害を受けていると。このようなニュースは、考えると私たちの心が痛み張り裂けそうです。
或は、彼は人のいないところで苦しみを受けていると思うと、私たちは毎日びくびくした状態なのです。ある時、息子を学校へ送る時に、息子に「母さんはお前の英語がうまくなるのが遅くて、焦っているのよ、学校でよく勉強するのよ」と言いました。息子は「英語ばかり勉強できないよ。」と言うのです。私が「なぜ」と聞くと、彼は「中国語を話せるのをとっておいて、父さんに話をしてあげなきゃね。」って言うんです。
B:胡錦濤主席が先日アメリカを訪問してオバマ大統領と会見しました。あなたは当時記者会見を開いて、どのようなメッセージを伝えたかったのですか?
G:私が発したメッセージはオバマ大統領も子供の頃に父の愛を渇望していました。だから、私は、娘と息子も父の愛をとても渇望しているということを伝えたかった。もしオバマ大統領が子供の時に父の愛を受けられない苦痛を覚えていれば、私の子供が父の愛を受けられるように助けてくれるはずだと思ったのです。
B:オバマ大統領はあなたのメッセージに対して反応はありましたか?
G:ありません。
B:あなたは他の手段で努力されて高智晟が自由になるようにしましたか?
G:そうです。私はワシントンへ行って、議員に会い、国務院の人にも会いました。私は夫が受けた迫害と子供たちの父への思いを彼らに話ました。彼らはとても同情して、引き続き私を助けたいということでした。
B:高智晟は人権擁護のために政府から拘束されました。高智晟がこのようにするのは価値があると思いますか? 彼は当時このようにするべきだったのでしょうか?
G:夫は弁護士です、彼は終始変わらず当事者側に立っていました。彼は出来る限りお金のない人のために無償の助けを提供していました。金と権力は彼を誘惑できませんでした。権力と闇は彼を倒すことはできませんでした。彼は弁護士を職業としていただけでなく、この職を通して大衆に公平、正義と良識を伝えたのです。
このような人民が必要とする良い弁護士が、中国共産党に弁護士資格を剥奪され、弁護士事務所を閉鎖させられ、家庭は監視され、誰も知らない場所で拷問を受けています。彼は道義と良識という最低ラインを守って仕事をしただけで、私たち家族はこんなに重たい代価を支払わなければなりませんでした。
<インタビューの音声>
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